テコリン酸

 薬用発毛剤開発の副産物として生まれた新化合物「テコリン酸」――当初、この発見が人類史を一から書き換えてしまうほどの意義を持っているという事実に気付く者は少なかった。
 しかし、時を経るにしたがい、人々は否が応にもこの物質の備えるいくつかの驚くべき特質を目の当たりにすることになる。


 テコリン酸は禿げを治さなかったが、代わりに枝毛を地上から駆逐した。次いで肩こりを解消し、更には虫歯を完治させた。好きなだけ食べても決して太らず、動脈硬化を防ぎ、医者も匙を投げた末期ガンを癒し、苦手の英語を克服し、諦めていた大学に合格し、冷え切った夫婦関係を回復させ、憧れのあの娘が冴えない僕に微笑んでくれた。
 テコリン酸のおかげで、脱サラして始めた事業が軌道に乗り、記念に買った宝くじで一等が当たり、スプーン一杯で驚きの白さになり、十本の映画を手のひら大のディスクに保存し、オレオレ詐欺の巧妙な手口が白日の下に晒され、景気は緩やかに上向き、今ならキャンペーン期間中につきお値段そのまま、もう一台セットでお届けした。


 風船飛行で行方不明になっていたテコンドーチャンピオンのキム・テコリンさんが奇跡の生還を遂げた日、全米を笑いの渦に巻き込んだ快作「テコリン」が遂に日本上陸、ぷち家のマスコット・テコちゃんは同社の看板商品であるテコレートを頬張りつつ、テコリンフィルハーモニー楽団の生演奏に聴き入っていた。
 新生児の名前ランキング一位は女の子がテコちゃん、男の子がテコ郎くん(明生調べ)、ノーベルテコリン賞を受賞したテ・コ氏はテコテコサンダルを鳴らしながらステテコ姿で登壇、「それでもシーソーは梃子である」と発言した。氏の開発したテコリンエンジンはマイナスイオンの力で居眠り運転を防止した。


 社会学者はこれを活版印刷蒸気機関、コンピュータに続く究極の産業革命であると結論、人類学者は火、文字、テコリン酸をヒトにとっての三種の神器と称した。

「――と、素敵な未来を予感しつつ、こんなモノを作ってみたんじゃが」
 禿げ研究の第一人者である田中博士は、奇妙な緑色の溶液で満たされた試験管を高く掲げた。
「何です、これは……ああっ、触るとテコテコする!?」
 助手の鈴木君は驚くと同時に感嘆して、
「私はこれまで女性の胸のふにふにこそが究極の手触りだと信じて生きてきましたが、どうやらそれは思い違いだったようだ。素晴らしい発見ですよ、博士」


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