感染
久々に徒歩で出社してみると、後輩の澤上が挨拶してきた。
「クラムボンは笑ったよ」
私が「え?」と聞き返すと、相手は嬉しげに――かぷかぷ笑っている。彼は笑うとえくぼがくっきりと凹む愛嬌のある丸顔だった。それを私は初めて知った。
「何を言ってる?」
「知らない」
手に負えない。澤上は心を病んでしまったのだろうか。まさか、私が何かストレスを……?
困り果てた私に、課長は笑って、
「五月病だよ。放っておけば、じきに治る」
否、五月病のはずはない。こんな症状など聞いたこともない。澤上がなぜ横向きにしか進めないのか全く分からない。
「君は異動してきたばかりだったね。ここらじゃ五月病っていうとコレなんだ……ま、賢治に縁のある土地柄かな」
澤上の病気はしばらく続き、日がな一日かぷかぷ笑ったり跳ねて笑ったりしていたが、やがて変化が訪れた。雨曇りのある朝だった。
「クラムボンは死んだよ」
土気色の面持ちで、厳かに告げる。
「殺されたよ」
穏やかではない。
「殺された?」
「分からない」
全く手に負えない。澤上の意図がさっぱり分からない。彼がなぜ横向きにしか進めないのかということも、やっぱり分からない。
困り果てた私に、課長は力強く、
「快復症状だ。明日には元に戻るぞ」
課長は正しかった。
翌朝、始業間際に出社した私を出迎えたのは「おはようございます」という至極真っ当な挨拶――見れば、仏頂面の澤上が自席にちょこんと座っている。
社内の空気は元通りになっていた。否、昨日までだって他の同僚たちは平然としていたのではなかったか。珍しい病気ではないという話は本当だったのだ。風土病というわけだ。
私が動けずにいると、やおら澤上が立ち上がり、真っ直ぐこちらへ向かってくる。文句でもあるのかと身構えたが、何のことはない、手洗いに行くのだろう。私は部屋の出入口を塞ぐように立っていたのだ。
澤上は軽く会釈をよこすと、身体を横向きにして私とドアの隙間をすり抜け――すれ違いざまに囁いた。
「クラムボンは笑ったよ」
短い言葉。耳を満たすのは、ひんやりと冷たい残響。
私は驚いて振り返った。澤上の顔は見えない。彼は一度も振り返らず、僅かに前屈みになりながら廊下を小走りに遠ざかって行く。
背中を見送りながら、無意識のうちに私は呟いていた。
「ああ、笑った」
自分の口から発せられた言葉に驚愕したのは一瞬だった。
確かに──確かにクラムボンは笑っていたのだ。
なるほど。次は、私の番か。
(1000字・空白除く)